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デザイナー受難時代と不寛容社会(1)


 デザイナー受難時代、と言えるかもしれない。東京オリンピック・パラリンピックのエンブレム騒動を見ていて、そんなことを感じた。
 佐野研二郎氏のデザインがオリジナルだったのか、それとも盗作、模倣の類かという直接的な問題より、この騒動が広義のデザイン業界(グラフィックス分野に限らず、工業デザイン、建築デザイン等あらゆる分野を含む)に与えた影響は想像以上に大きいのではないだろうか。この業界に携わる人達、さらにいえば知的生産活動に携わる人達の創作方法をガラリと変える程のショックをもたらしたのではないか。

厳密適用すれば線引きは微妙

 模倣、盗作、一部流用等の問題は昔からあるが、この問題を厳密に適用すればするほど線引きが非常に難しくなる。例えば画家の工房作品をどう評価するのか。ルーベンスの絵は彼自身が最初から最後まで描いたものに限定するのか、それとも下絵のほかは工房制作のものまで含めるのか。
 現代になるとあらゆる分野で分業が進み、有名漫画家、多作で有名な作家などはプロダクション所属の漫画家や、専属ゴーストライターがかなりの部分、あるいはすべてを書いているが、著者名には作家本人しか載ってないものが多分にある。
 工業デザインになるとさらにややこしい。日本車の多くはベンツやBMWにどこかしら似ているし、部分的に非常に似た箇所は結構多い。それらを模倣、盗作と言うのかどうか。

 部分的には似ていても全体像が違っていれば、それは模倣ではなくオリジナルである。この見解に異議を唱える人はまずいないだろう。
 工業デザインが盗作、模倣の指摘を逃れているのは全体像が違っている、あるいは別機能の付加があるからだ。
 ではコンセプトが同じで、作品にも微妙な類似点があるものにオリジナリティーが認められるのかどうか。あるいはコンセプトそのものにオリジナリティーは認められないのか。
 もし、そうならコンセプトはいくらでも真似たり、拝借しても許されることになるが、この分野の論議はまだほとんど行われていない。

 それにしても「佐野バッシング」はとどまるところを知らないようだ。次から次に類似作品が探し出され、「盗作」呼ばわりされているのは少し気の毒な気がする。
 部分が似てくるのはある意味仕方ない。しかし、コンセプトも全体像も違えば、それは別作品と認めるべきだろう。
 とはいえ、近年、この境目が非常にあいまいになりつつある。特にデザイン分野で。
なぜなのか、なにが原因なのか。

 従来、模倣に関しては比較的緩やかというか、許される範囲がかなり広かった。「学ぶは真似るより始めよ」と言われるように、師匠の技(形を含む)を真似、しかる後に自分なりのものを付加していき、やがて自分のオリジナルという別のものが出来上がってきていた。
 師匠の作品を模倣しながら独自の解釈、独自のものを付け加えられるか、それとも師匠の単なる模倣で終わるかどうかで、作品の評価が変わった。

 それがインターネットの普及につれて急速に変わりだしたのは検索機能のお陰だろう。それまでは類似作品、類似点を探すのに書物なら読まなければならなかったし、その他の作品でもその分野で数多くの作品を観ているか、かなり精通していなければ似ている箇所を発見できなかった。
 早い話がマニアか専門家でなければ模倣や類似点を発見するのは難しかったのが、いまやインターネットのお陰で誰でも見つけることができるようになってきたのだ。検索にかける時間と、その趣味さえあれば。

 一方、作り手の側はどう変わったのか。作品そのもを生み出すプロセスやアイデアはそれ程変わってないともいえるし、道具の変化により思考や制作プロセスは大きく変わったとも言える。
 その変化をどう捉え、どう対応するかによって彼らを取り巻く環境も大きく変わってきた。

組み合わせの時代
                                               (2)に続く

 


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